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ナルトオレンジの発祥
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[花とミルクとオレンジの島]
花とミルクとオレンジの島
 かつて、「花とミルクとオレンジの島」と呼ばれた淡路島では柑橘類が盛んに栽培されており、昭和24年には柑橘園の総面積は全島で520haにも及びました。なかでも、淡路を代表する柑橘がナルトオレンジ(またはナルトみかん、鳴門蜜柑)です。
鳴門蜜柑之伝  鳴門蜜柑の来歴については諸説ありますが、発見者は当時淡路国を治めていた蜂須賀家の藩士、陶山与一右衛門長之(以下、長之)であるという説が有力で、明治22年刊行「鳴門蜜柑栽培要略 全」では以下のように記されています。

「蜂須賀家の家臣、陶山与一右衛門長之が唐橙の実を食べたところ非常に美味しかったので、その種を洲本下原町の屋敷の庭に播いたところ、一本だけ発芽した。長之はこの樹を大事に育てたのでやがて大樹となり、実をつけるようになった。その実の外見は長之が食べた唐橙によく似ていたが風味が格別だったので、長之はたいそう喜んでこの樹を秘寵した。」 (第一章「鳴門蜜柑之伝」より抜粋)
ナルトオレンジで家が建つ?!
ナルトオレンジで家が建つ?!  その後、長之の蜜柑は接ぎ木によって広まっていき、昭和7年刊行「淡路の誇」によると「文政十年(1827年)頃、洲本町の泉屋定吉が初めて苗木を養成して各地へ販売した」と記されています。また、同書には「明治10年〜20年ごろにかけて塩田村、鳥飼村、大町村、廣石村、山田村、由良町などに広まっていき、明治35年頃から津名郡中主要生産地で営利目的の大規模栽培が始まった」とされていますが、昭和63年刊行「津名町史」によると「江戸末期には洲本から津名にかけてかなり広まっていた」との記載もあり、その栽培規模の変遷については諸説あるようです。

 鳴門みかんの生態的特徴としては極めて樹勢が強く、古いものでは樹齢150年、樹高が7m以上という柑橘としては日本最大級を誇るものが存在したそうです。このような大木では、害虫(ヤノネカイガラムシ)駆除として当時行われていた青酸ガス燻蒸のために紙製の燻蒸幕を特注する必要があり、その大きさは直径20mにも達したそうです。ただ、こうした大木は袋掛けや収穫の際に樹高が高すぎて脚立が届かないため、切り下げによる低樹高栽培が取り入れられるようになりました。

 大正、昭和の時代に入っても淡路市、洲本市を中心に植栽が増え、昭和24年頃には鳴門みかんの栽培総面積は200haにも達しました。この頃、鳴門みかんは従来の地元ならびに関西地区中心の販路から「鳴門オレンジ」の商品名で東京進出を果たします。当時、初夏の主要柑橘であった夏橙と比べて鳴門オレンジは風味の高さが評価され、高級柑橘として贈答品主体の販路を確保し、温州みかんより高値で取引されました。当時を知る農家さんにお話を伺うと、「樹になっている実だけではなく、下に落ちたものまで業者がみんな持って行った」「ナルトオレンジ1年分の収入で家が一軒建った」という言葉からも、ナルトオレンジの高い人気ぶりが伺えます。
入手困難な香り高い「幻の柑橘」
入手困難な香り高い「幻の柑橘」
 現在、ナルトオレンジは淡路島内でも入手が困難なことから「幻の柑橘」とも呼ばれています。ナルトオレンジは爽やかな酸味とほろ苦さ、果皮の強い香りが大きな特徴で、食のプロである料理人にナルトオレンジを試食してもらうと「こんなに香りの強いオレンジは初めてだ」と驚かれることが多いです。品種改良に関してはこれまでに様々な取り組みがなされたそうですが、果実の形状がいびつになる場合が多く、唯一の改良種は外観品質を向上させた「紅ナルトオレンジ」のみです。すなわち、ナルトオレンジ自身は約300年前に長之が発見してから現在に至るまで改良がなされておらず、育種学的には「原種」に近い品種であると考えられます。原種は現代の栽培種にはない味や香りをもっている場合が多いため、ナルトオレンジは今後の新たな品種改良において貴重な遺伝資源であると考えられます。
文責:吉川貴徳

参考文献:淡路特産”ナルトみかん” 〜歴史と栽培法 今後の展望〜. 淡路県民局洲本農林水産振興事務所、南淡路農業改良普及センター、北淡路農業改良普及センター、県立農林水産技術総合センター淡路農業技術センター著
名前の由来
阿波国と淡路国のつながり
阿波国と淡路国のつながり  ナルトオレンジに関する質問で最も多いのは「ナルト(鳴門)オレンジって徳島県と何か関係があるの?」というものです。実は、ナルトオレンジの名前の由来を調べると、淡路島と徳島県の関係性が浮かび上がってきます。
 現在、淡路島は兵庫県の一部に属していますが、江戸時代は徳島藩の領地でした。その当時、徳島藩は阿波国(現在の徳島県)と淡路国(現在の淡路島)の2国を領有しており、外様大名の蜂須賀家が代々治めてきました。
 前項「ナルトオレンジの発祥」でもご紹介したようにナルトオレンジの生みの親は陶山与一右衛門長之であると言われていますが、ナルトオレンジの名付け親は徳島藩の藩主であろうと言われており、明治22年刊行「鳴門蜜柑栽培要略 全」では以下のように記されています。

「陶山家七代与一右衛門長知という者がこの蜜柑を藩主である蜂須賀家十四代斉昌に献上したところ、斉昌は『天下無比の物なり』と絶賛された。このような物が無名のままではいけないと仰せられ、領地を流れる海内無比の鳴門峡(海峡)より名前をとって鳴門という名を与えた。」
(第一章「鳴門蜜柑之伝」より抜粋)

 この記述から推察するに、鳴門蜜柑は長之が発見してから長い間無名のままで、陶山家の七代長知に至ってようやく「鳴門」という名を付せられたことになります。その後、1871年の廃藩置県によって徳島藩は徳島県となり、淡路島は兵庫県に編入されて今日に至るわけですが、「鳴門オレンジ」のその名が淡路と徳島のつながりを現在でも物語っているんですね。
文責:吉川貴徳

参考文献:淡路鳴門蜜柑栽培要略. 新岡興文/編
名前の由来
絶滅のピンチを免れたナルトオレンジ!?
 前項「ナルトオレンジの発祥」「名前の由来」でご紹介してきたように、ナルトオレンジは淡路島で発祥し、蜂須賀家の藩士、陶山与一右衛門長之が発見してから陶山家七代長知の代で蜂須賀家十四代斉昌より「鳴門」の名を頂いて今日のナルトオレンジに至るのですが、長之より代々受け継がれてきた樹が長知の代で風災によって枯れてしまい、長知はたいそう落胆したそうです。
 ところが、長知の知らないところに長之の樹は残っていました。長之の母親は備中松山藩(現在の岡山県高梁市)の家老、水谷太郎左衛門の娘で、太郎左衛門が淡路に移り住んだ際、長之は水谷氏の屋敷に自生していたダイダイの樹に自分の蜜柑の枝を接いだのでした。すると、その樹に実った蜜柑が非常に美味しかったことから、両家の珍果として末長く大事にされることとなりました。この水谷氏の屋敷の蜜柑の枝を三原郡新庄村の植木屋、嘉右衛門が譲り受け、大きく育てた樹が数株あることを知り、長知はその中でも一番大きな樹を自分の屋敷に移植させて大事に育てたと言われています。
 蜂須賀家十四代斉昌に献上した蜜柑がどちらの樹に実ったものかは定かではありませんが、一度は枯れてしまった樹を再び長之が蘇らせたというのはなんとも運命的ですね。
文責:吉川貴徳

参考文献:淡路鳴門蜜柑栽培要略. 新岡興文/編
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